キジ猫世間噺大系

一人暮らしで猫を飼った男の末路

沖縄復帰46年目の今、沖縄戦について思ったこと

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昨日5/15は沖縄復帰46年の節目だった。

連日沖縄戦の動画をyoutubeで見ている。ほんの73年前の出来事なので米軍側の動画が多数残っているのだ。中にはカラー映像もあり時間を忘れて見入ってしまう。そもそも戦争動画を学校教育でほとんど見ることが無かったため、リアルな戦争がどんな感じか想像がついていなかったのだ。

 

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豊見城の海軍司令部壕に行った。この写真の通り地下壕が深く掘られており、アリの巣のように複数の部屋から構成されている。戦中実際に海軍司令部として機能していたところだった。

この部屋の1つに、幕僚が手榴弾で自決した部屋があり、破片が部屋中の壁に飛び散っていたのを見て、それまでワイワイやっていた我々一行はすっかり押し黙ってしまった。

 

沖縄戦では両軍・民間人合わせて20万人もの犠牲者を出したがその半数が民間人である。万単位の数を考えるとき、僕がイメージするのは高校の生徒数だ。僕が通った高校は人学年320人、全校で教職員含め1000人。民間人10万人は、僕の高校100個分に相当する。

 

沖縄戦は1945年4月1日の米軍上陸以来、伊江島、嘉数高地、シュガーローフ、首里と激戦地は南下していき、実質敗戦が確定した首里陥落以降も、日本軍は民間人を巻き込んで南下した。これ以降、最後の1人まで戦う姿勢の日本軍と、最後の1人まで掃討する米軍によって、1日あたり1000人規模の死者を出していった。毎日高校1つが潰されていった塩梅だ。

6月23日、司令官牛島満中将の切腹により日本軍の組織的戦闘は終結したが、牛島中将の最後の言葉「最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」を忠実に守る格好でみんな死ぬまで戦った。

 

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※最大の激戦地シュガーローフ。丘に掘られたトンネルは地下で連携しており、高度に要塞化されていた。

 

で、そもそもの疑問がなんで民間人がこんなに犠牲になったのか。戦争って民間人は関係ないでしょうに。その原因は日本軍の戦い方にあったらしい。日本軍は「沖縄人の服を着て遊撃戦すべし」との作戦を立てていたのだ。逆に実際の民間人も多数戦闘に参加しており、米軍からしたら保護したはずのオバーが突然手榴弾で自爆するもんだから脅威である。オバー自慢の爆弾鍋などと言っている場合ではない。米軍が見境なくなってしまうのも必然かもしれない。

 

民間人は付け焼刃で兵となった。14,5歳の学生で組織された鉄血勤皇隊の斬り込み攻撃なんて、どう考えても常軌を逸している。爆雷を背負って戦車に体当たりしてこいなんて言われたらどうしようか。ある動画で見たけれども、「突撃の時はみんな嬉しかったと思いますよ」との証言があった。天皇陛下のために死ぬことが男の本懐という。今考えてもピンとこないが、自分の周りの人が皆同じ考えだったらどうだろうか。自身の結婚式の時に思ったが、一般人の人生で普段密接な関わりがある人というのはせいぜい数十人だ。極論、その数十人が個人にとっての社会だ。その数十人が目の前で死んだり、率先して任務をこなしていたらどうだろうか。誰だって流されるし、死ぬのが怖くなくなったりもするかもしれない。「康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかない」的な気持ちになって組織に貢献しようとするのではなかろうか。ちと違うか。

 

米軍視点の沖縄戦の動画で見たが、戦闘中はアドレナリンがバシバシ出るため、痛さも感じないし、焼ける迫撃砲の砲身を素手で掴んでも熱さを感じないことがあるらしい。一種の高揚状態でバンザイ突撃も行われたんじゃなかろうか。その時の感情は想像も及ばない。

 

逃げ場が無いためガマ(壕)に隠れていると米軍からの投降勧告がある。「カマワン(Come on)デテコイ」。応じないと火炎放射器か手榴弾でドカン。この時、日本兵は「生きて虜囚の辱を受けず」と民間人の降伏を許さなかったというが、あるいは日本兵の中国での所業が関係しているという話がある。捕虜になると男は銃殺、女は辱めを受けた後に殺されると信じ込まれていたのだが、それはまさに日本兵が中国でそのような所業を行ったからだという。アメリカ人の実態を知っている人がいたガマではスムーズに投降が行われたところもあるため、皮肉な話だ。この日本軍の世の中的な印象の悪さは何なのか。敗戦国の宿命?投降を躊躇った人の中には、捕虜になり万が一日本が勝ったら、死ぬまで非国民と差別を受ける恐怖もあったろう。

 

時代背景について。明治初期まで琉球王朝として内地とは異なる独自文化を形成していた沖縄人がなぜそこまで天皇陛下バンザイになってしまったのか。それは徹底した皇民化教育にあったという。そんなに洗脳ってできるものなの?と疑問に思ったが、大政奉還後75年で終戦、終戦後75年で現在に至ると考えたとき、人の考え方と常識は70年もあれば180度転換すると思い至った。琉球王朝の人は孫世代が天皇陛下バンザイになるとは夢にも思わなかっただろうし、戦中派の人は孫世代が髪を金に染めラップを口にするとは思いもよらなかっただろう。では我々の孫世代はどうなるか。ターバンくらいは巻いてるかもしれない。

 

「デイゴの花が咲き 風を呼び嵐がきた」

沖縄ではデイゴが綺麗に咲いた年は嵐になるという言い伝えがある。1945年はとても綺麗なデイゴが咲いてしまったのだろうか。実に宮沢和史26歳の若さの作品である。天才の仕事に年齢は関係ないんだな。

 

ニライカナイは沖縄より辰巳の方角にあるとかいうのでGoogle Mapで見たら沖縄の南東はハワイだった。かつては理想郷とは程遠い真珠湾基地。きっとニライカナイは海底に広がっている。

 

 取りとめもない記事になりましたが、以上思ったことです。