キジ猫世間噺大系

一人暮らしで猫を飼った男の末路

ゴッドファーザーのアルパチーノの目の演技の巧さを語りたい

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久しぶりにゴッドファーザー三部作を観てしまった。作業用のBGMとして流していたつもりが気がついたらガッツリ張り付きで観ているものだから50年前の映画ながらやはり凄いと言わざるを得ない。作中派手なシーンは少ないし、殴るシーンで拳が当たってなかったり、撃たれた時の死に方がお粗末だったりするが、終始魅入ってしまうのは結局役者の技なんだと思う。

アル・パチーノの目の演技の凄み

47歳という若さでビトー役を演じたマーロン・ブランドが凄いのは言わずもがな、特筆すべきはマイケル役のアル・パチーノの目の演技である。ソロッツォとマクラスキー警部を射殺する時の目は特に印象に残る。トイレに仕込んだ拳銃を取り席に戻った時の目。動揺を押し殺そうとするが、不随意筋の働きか瞳孔は開ききり、黒目が泳ぐ。緊張感が漲る圧巻のシーンである。

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実はこのシーン、アル・パチーノの続投を決定付けた局面であるというのが驚きである。この映画の撮影は初めから軌道に乗っていたわけではなく、コッポラ監督も無名のアル・パチーノもいつ外されてもおかしくない状態だったらしい。撮影中のコッポラの隣には後釜となる監督が張り付いている状況で、マイケル役には当時人気絶頂だったロバート・レッドフォードが推薦されており、パチーノはどうせ交代させられる、というメンタルで撮影に挑んでいたという。真偽の程は定かではないが、カタギ時代のマイケルに垣間見えるヤレヤレ感はパチーノの素だったとも、それを見越したコッポラ監督の狙いだったとも言われている。いずれにしてもマイケルのキャラクターに寄せるにあたって功を奏したことは間違いない。


転機が訪れたのは、いよいよパチーノ降ろしが決定した時である。撮影現場ではこんな優男が二代目ゴッドファーザーは務まらないという声が噴出し、降ろすことがほぼ確したタイミングでコッポラ監督は件のトイレからの銃殺シーンを前倒しで撮ったという。その時のパチーノの演技以降、パチーノ降ろしの声はピタリと止んだという。確かに納得の演技である。今となってはマイケルをパチーノ以外がやるなんていうのは考えられなくなっている。結果、大学出のインテリ優男が威厳を湛えた冷酷な男に変貌する様がこれ以上ない程表現されていた。f:id:kiichangazie:20200823220546j:image

※この頃のきゃわいいマイケルはもう現れない。。

盲目の軍人の演技は必見

アル・パチーノの目の演技を語るときは「セント・オブ・ウーマン 〜夢の香り〜」にも触れないとニワカである。この映画ではパチーノは盲目の退役軍人を演じているのだが、これが本当に盲目かと見紛うばかりなのである。瞳が全く動かず焦点が合っていない様が完全に見えてない人のようだ。僕ら素人が見てもこの演技が凄いというのが分かるし、パチーノはこれでアカデミー主演男優賞を獲るのだが疑問の余地もない。

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※一瞬しかこの女優が出てこないのにジャケットになってて完全にジャケ詐欺だが、最高のシーンだった。

演技の巧拙とは

僕ら素人が演技の巧拙を考える時は拙の存在に思いを馳せるのがよい、というのが持論である。世の中には拙の演技というものが平然と存在しており、引き合いに出すのが申し訳ないが、某元ウルトラマンの特攻志願兵の役や、某グルメ芸人の嫁のキャバ嬢役なんかは観るに絶えず途中で中断してしまったことがある。芦田愛菜以外の子役の演技なんていうのも同じだろう。言葉を選ばずに言うならば、クサい演技、なのである。いかにもわざとらしさが抜けずに見てるこちらが恥ずかしくなってくるのである。何も全否定しているわけじゃなく、彼らの主戦場は他にあるということだ。


僕もかつて下手な演技が存在する意味が分からなかった。普通に言われたセリフをそれっぽく言えば嘘くさく見えることはないんじゃないかと思っていた。でもこれは自分がやってみればよく分かる。かつてショートフィルムを撮ることがあり与えられたセリフで芝居をしてみたのだが、本番になるとセリフは飛ぶし表情は強ばるし散々なものだった。その時に、これは訓練してもどうしようもない壁が存在する、ということが実感として理解できた。自然な演技というものがどんなに難しいか。役者の、巧い、というのは天性のものなのだと思う。でないと芦田愛菜のことが説明できない。坂元裕二脚本の「Mother」での芦田愛菜は親に虐待される子の役なのだが、今でも順当に成長した芦田愛菜の姿をテレビで見るにつけ、あの虐待に耐えてよく成長したねぇ。。と見当違いの感想を抱いてしまうのであった。

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※芦田先生、人生何周目だよ…

「反応する」ということ

演技が巧い、ということをもう少し分解すると「反応する」役者かどうか、ということになるらしい。これは伊丹十三が言っていたのだが、通常の人と人との会話では相手の発言を聴いてそれを頭の中で意味を咀嚼し、自分の考えを言語化して発する、というプロセスを踏む。このことを相手の発言に「反応する」という。しかし、こと演技となると、役者の中には決められたセリフを言わなければならないという頭が出来上がってしまっているため、相手の発言をインプットしてからアウトプットするまでのプロセスが全て省略されてしまいがちなのだそうだ。これが「反応できない」ということである。「反応できない」演技は、とかく不自然に見えるという。さらに、役者で売れるにはこの「反応する」ということが出来たとしても、とどの詰まり数値化や具体化ができない「華」とか「個性」とかが重要になってくるのだから本当に選ばれしものにしか出来ない仕事なんだろう。

バルジーニの三点倒立も許せる!

随分話が脱線したが、ゴッドファーザーは脚本、役者の演技、キャラの魅力、どこを切り取っても絵になるカメラワーク、重厚さを演出する暗い照明、端役の些細な仕草など、全ての完成度が高すぎる傑作である。冒頭に、死に方がお粗末と書いたがこれもご愛嬌だろう。終盤、マイケルの差し金に撃たれたバルジーニが倒れる途中で三点倒立するのもおいおい欲しがり過ぎだろ!とは思ったけど、額を撃たれたマクラスキーがまだ意識があるように見えるのも欲しがり過ぎだろ!とは思ったけど、右目を撃ち抜かれたモーグリーンがスヤァ…て眠るのも欲しがりすぎだろ!とは思ったけど、やっぱりこの映画、いつ観ても新しい発見があり、何度も見返したくなるのだ。

観ると背筋を伸ばして通勤してしまう映画というのも、これくらいだろう。

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※この三点倒立がおれの中で話題に。