新入社員の時からお世話になった先輩が退職することになり送別会が開かれた。
その先輩は大変に個性的な方で、昭和天皇の近衛兵だった祖父を持ち、極右を地でいくそのスタイルは毎朝の靖国神社への参拝とオールバックのヘアスタイルに現れていた。
当時、新入社員だった僕は配属された部署でセブンスターの匂いと形容し難い圧を持った先輩に萎縮した。メールでも素で一人称「小生」を使う先輩は、営業職ながらあまりにも尖りすぎており、上への突き上げとそれに相反する後輩への優しさはなんとも言えない魅力があった。その他者に迎合しないスタイルは不器用ながらも首尾一貫しており、僕は先輩に何とか認められようと仕事を頑張ったことを覚えている。
先輩には独自の規律があった。自らが認めた唯一の上司には絶対の忠誠を誓い「俺は◯◯さんが死ねと言ったら死ぬよ」と真顔で言い放つ姿は今思うとセルフブランディングの一環だったが、歪んだ体育会系組織だった学生寮出身の僕には意外とすんなり受け入れられた。
飲み会で目上の人の酒が空くとすぐさま檄が飛んできたり、客先に出すメールの文面を厳しく指導される状態は今思えば居心地が良かった。この野郎…!と思ったことは数え切れないが、腹を割って話すとそのハッキリしたものの考え方には共感を覚えた。どちらかと言うと器用貧乏な僕にしてみれば、気に入らないものをはっきり気に入らないとする、ある意味幼稚であり歪な六角形を持つ先輩には心の奥深くで憧れた。
事実、先輩の気に入らない人間への当たりは強烈なものがあった。気に入らないとあらば暴力さえ辞さないスタイルは流石に社会人としてNGだと思ったが、それができる大人がどれくらいいるだろうか。ストレートでそれなりの大学を卒業したある意味いい子ちゃんだらけの会社組織の中で異彩を放っていたことは確かだ。
組織が大きくなると、どうしても多種多様な人間がいるもので、コマとしての扱いづらさは命取りになる。それでも尖り続けることしかできない先輩のことは、得点稼ぎに必死なヤツらよりずっと好きだった。「そうとしかできない」と言うのは、個性の最たるものだ。
思えば僕には「そうとしかできない」というのがあまりない。良く言えば「物事を卒なくこなすことができる」なのだが、悪く言えば「芯がない」。
昨日ハライチ岩井による澤部評をwebで読んだのだが、澤部は均整の取れた六角形の持ち主であり、総合力の高さは芸人随一だという。ただ、澤部には「実体が無い」。こうするとウケる、という周囲からの情報をインプットし、それを自分のものにしてアウトプットするのが類い稀に上手いのだが、澤部自身から産まれるものは皆無なのだ。澤部は裏では闇を抱えているはずだ、という者もいるらしいが、幼稚園から一緒の岩井曰く「澤部には実体がないから闇もない」だそうだ。無であることが逆に個性となっているということらしいが、澤部が自身を「無」だと認識した途端、サラサラサラ〜と肉体ごと崩れていくかもしれない、というのはなかなかにエッジの効いた岩井節だ。
話が逸れたが、澤部ほどの虚無とまでは行かずとも、いち烏合の衆であり雰囲気で人生をやっている僕にとって、先輩の覚悟に裏打ちされた個としての生き方は鮮やかに目に映った。
送別会では昔話に花が咲いた。
新人配属となってすぐの僕の歓迎会後、吉野家のトイレでオロロロロ〜とリバースする僕のゲロ音を聞きながら牛丼をかき込んだこと、数千万の客への請求書が数ヶ月後に袖机から出てきたこと、上司に思いっきり拳でぶん殴られたこと、気難しい上役との出張で上役の好きなSPA!を事前に買っておいたこと、「お前の結婚式潰す」と言いながら結婚式に来てくれてしっかりと祝ってくれたこと、夜の九段下の路地裏を二人で歩きタバコしながら帰ったこと…
この会社で起こったあらゆることが先輩の会社人生を彩っていたのだと感じた。その色は時にくすんでいたとしても、先輩にしか出せない色だったことは確かだ。
先輩には、送別の品として入浴剤セットを贈った。敵陣視察と称して奥さんのためにディズニーランドに頻繁に足を運ぶ愛妻家の先輩は、顔に似合わず毎日奥さんと一緒に風呂に入っているらしいのできっと喜ばれることだろう。
送別会は先輩の「殺すリスト50」の発表から始まったが、尺と記憶力の都合で10人あたり聞いたところでお開きとなった。その後一行はカラオケに流れ、昔と変わらない馬鹿騒ぎをした。恒例の軍歌「同期の桜」をもちろん歌う。その〆に先輩の同期(元ヤン)が歌った結婚闘魂行進曲マブダチは僕らをしんみりさせた。
〽︎三三九度で そこの◯◯に告ぐ 迷わず行けよ 男だったら
〽︎幸せになってくれよな友よ 俺達の自慢のマブダチよ 君を愛する誰もが 祈ってる
願わくば新天地で頑張ってほしいけど、上司を殴って2年くらいで帰ってくるという青写真を僕は捨てられずにいる。