別にこんなことをここに書く意味もないんですが、盆に帰省して檀家の寺の法事に参加してみて色々思うところがありました。
まず、墓参りをしたのですが大正時代に建てられた古い墓に僕の曽祖父が眠っており、曽祖父は45歳の若さで他界してるんですが墓に彫られた戒名をよく見ると「超絶院〇〇居士」とありました。聞くところによると曽祖父は45歳で亡くなるまでに4回結婚しているらしく、かなりの破天荒な男だったようでそりゃあ坊さんも「超絶院」くらい名づけるわと思いました。「静寂院」では絶対ないな、ってなったんだと思いました。戒名でいじってるやん、サンシャイン池崎のセンスやん、と思いました。
そんでお堂に入って和尚さんが焼香してくださいというもんだから、親父に続いてやり方真似してなんか七味唐辛子みたいなのをつまんで、さも慣れてますよ的な感じで眉間に持ってきて灰皿みたいなのにパラパラ撒いてたら和尚さんが「いただかないでください!」とか強めに言ってて、え?何も食ってねーけどとか思ってもう一回眉間に七味を持ってきたらまた「いただかないでください!」て注意されて、その時にこの眉間七味のことをギョーカイでは「いただく」というらしいということを直感したんですが、数十人の前で早速軽オコされるという一幕がありました。
いや急に僕みたいなトーシロにギョーカイ用語言われてもわかんねーわと思いましたし、ザギンのチャンネーの店にミーノー行って黒服から「ダーソーですか?ズーミーですか?」言われて和尚さんはわかりますかね?と思っちゃいました。ここに超絶院さんがいたら信長みたいに位牌に七味投げつけるくらいしますよ。超絶院さんまじパネーんだからな。
それからお経を唱えて和尚さんの説法があったんですが、ちょっと深いい話があったので紹介します。江戸時代、加賀千代女という俳人が残した俳句で下記があります。
朝顔に つるべ取られて もらひ水
これは、井戸水を汲もうとしたら、つるべ(井戸汲み用の滑車)に朝顔のツルが巻きついており、ありゃー、あっしの水が朝顔に取られてもうた、朝顔先生から水をもらわにゃならん、という意味の短歌ですが、加賀千代女は35歳の時に以下のように短歌を変えているのです。
朝顔や つるべ取られて もらひ水
「朝顔に」を「朝顔や」という感嘆詞に替えることによって、「私」の水が「朝顔」に取られてしまった、という「私」と「朝顔」の対立構造がなくなり、私も朝顔も同じく自然から水をいただく存在として再構築されているのです。私も朝顔も等しく天に生かされている存在として表現されているらしいのです。和尚さんは我々も天に生かされている存在ということを言いたかったみたいです。
35歳でこのことに気づくとは感心感心、と加賀先生の短歌を称えていたのですが、ちょっとネットで調べてみたらばそもそもの詩の意味が違ってて「朝顔がかわいそうだから隣の家に水をもらいに行った」という意味が正しいらしく、ものは言いようであることを学びましたし適当な知ったかしてもいいんだと思いました。そりゃあ金八先生も「正しいという字は『一つ』『止まる』と書きます。どうか一つ止まって判断できる人になって下さい」とか説教じみたことをドヤ顔で言うわと思いました。
でもなんだかんだ言ってお寺の雰囲気は居心地がよくバイブス合ってたので、また行きたいと思いました。