キジ猫世間噺大系

一人暮らしで猫を飼った男の末路

マジキチ教師に恐怖で支配された小学校時代

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さくらももこの「あのころ」というエッセイが面白い。ちびまる子ちゃんそのものの筆者の小学校時代の体験談がシニカルにまとめられた傑作だ。

読んでると自分が小学生の頃のことをありありと思い出してきたので以下チラ裏します。

突然ブチギレだエイゾウ先生

九州の片田舎にある何の変哲もない公立小学校に通っていた僕が小四の頃、エイゾウ先生という体育教師がいた。エイゾウ先生は当時40代だったと思われる。短く刈り上げられたスポ狩りの頭と屈強なガタイ。体育ジャージに半袖シャツイン。赤井英和を思わせる柔和な笑顔は健全な精神は健全な肉体に宿るということを実感させ、僕らはエイゾウ先生を慕いつつも大人として犯しがたい確かな威厳を感じていた。

 

その頃、同じクラスにコウヘイという児童がおり、こいつが人との距離感が掴めない困った男であった。小四にしてはかなりガタイがよく、タッパもあったコウヘイは、エイゾウ先生にも馴れ馴れしくタメ口で接していた。邪気眼でもあるコウヘイは、みんなでドッジボールをするときも「暗黒より出でし冥界の使者ハデス!!」などと叫びながらボールを投げていた。小柄だった僕は加減が分かっていないコウヘイの必殺の魔球に恐れおののいた。

 

授業中もじっとしていられないタイプで思ったことを口に出さずにはいられない彼はクラスでもかなり浮いた存在で、その性格が後に悲劇を招くこととなる。

 

当時の僕らの担任は新任の若い男の先生で、オネェ口調で子供達に接するためクラス全員から完全にナメられており、秩序の乱れた環境はコウヘイをどんどんのさばらせていったのだった。

 

ある日のこと、確か道徳の時間だったと思うのだが、クラスに設置してあるテレビで「さわやか三組」を観ることになった。当時、時たま授業でNHK教育テレビを観ることがあり、僕らはその非日常性に大いに浮足立った。そして、その時の授業の担当がエイゾウ先生であった。

 

エイゾウ先生は快活な声で「これからさわやか三組を観るのでみんな静かにすること」と告げた。そして、みんなが小さな液晶テレビを見やすいように机と椅子をクラス後方に押しやり、全員が床に体育座りをしてさわやか三組を観る手筈が整った。

次の瞬間事件は起きた。おもむろに口を開いたコウヘイが次のことを言ってのけたのである。

 

「エイゾウの映像は見らんでええぞう」

 

クソくだらないギャグだがクラス内はドッと沸いた。僕もいけ好かないコウヘイのギャグだったが悔しくも口元を緩めた。その時だった。

 

カツカツカツカツとコウヘイのもとに歩み寄ったエイゾウ先生はコウヘイを立ち上がらせると、両手でみぞおちの辺りを溜めのない波動拳の要領で思い切り突き飛ばしたのである。いきなり吹っ飛んだコウヘイはドラゴンボールで必殺技を食らって荒野の岩肌をズドドドと破壊する時のように机と椅子を押し分けて教室後方で止まった。一瞬何が起こったのか分からなかったのかコウヘイは目を丸くしたものの、息ができなくなっておりすぐに苦悶の表情を浮かべた。

 

そして次の瞬間、エイゾウ先生はコウヘイの胸倉を掴み「今度ナメた口叩いたらぶち殺すぞ」と凄んだのだった。教室内が悪夢と化した瞬間であった。

 

その後予定通り「さわやか三組」を視聴したのだが、既にコウヘイは泣き出しており馬鹿面に拍車がかかっていた。コウヘイはあまりの恐怖に声を押し殺して泣いていた。「さわやか三組」の邪魔をしたらただじゃ済まないということを理解したのだろう。

 

無論、「さわやか三組」の内容は全く頭に入ってこなかった。僕ら烏合の集は道徳の授業で図らずも「さわやか三組」よりも重要な社会の真実を学んだ。大人をキレさせたらヤバいということだった。

横田先生の独裁政権時代

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小五になると、これまたヤバい男が担任となった。横田先生だ。警察官から教師に転職した経歴を持つ彼は青髭の目立つ痩せた男で、分厚いメガネの底に猜疑心に満ちた濁った目を光らせていた。

横田先生は初めからおかしかった。僕らは五年生に上がったばかりの四月に次のルールを課された。

 

お互いに「さん」付けで呼び合うこと

将来大人になった時は性別関係なく「さん」付けだから今から癖をつけるようにとのことだった。こんなのブラック企業の特徴でしかない。なお、そのルールは30歳を超えた今なお守られていない。

 

挙手をしてはいけない

授業で発表する時は、挙手をして先生が当てるというシステムは排除された。当てるというプロセスが自主性を阻害しているとの理論に基づいていた。代わりに、発表する時は「僕が言います」と発声し、自ら立ち上がるというシステムが採られた。なお、その際に椅子をガーガー引きずることはご法度である。一度中腰で椅子を持ち上げ後方に置き直すという極めて神経質な決まりが定められた。他の人とタイミングがバッティングした際は「○○さんに譲ります」と言って身を引くのが美徳とされた。

 

自転車に乗る時は手信号を徹底すること

交通指導の授業でしかお目にかかれないアレである。チャリ通の横田先生自身も手信号を徹底しており、毎朝登校の度に曲がり角で腕を直角に曲げる姿を目にした。必要以上にチリンチリンと鳴らして児童を道の脇に寄せることも徹底していた。

 

およそ小学校教師に向いているはずもない神経質なこの男は、教科書を机の真ん中に角を揃えて並べるところから我々に指導し、度々ブチギレては僕らを困惑させた。一度機嫌を損ねると手の施しようがなく、僕らはただひたすら時が過ぎるのを待つより他なかった。

 

そのような環境で、僕らの毎日の「帰りの会」は熾烈を極めた。当時、小学校の帰りの会は、今日の良かったことと悪かったことを発表し合うというコーナーがあり、それはさながら弾劾裁判の様相を呈していた。もちろん盛り上がるのは悪かったことの発表だ。

 

「○○さんがバカって言いました」とか「○○さんが手紙を回していました」とか「○○さんが掃除をしていませんでした」とか、旧ソ連の総括よろしくその日の悪行を発表し合う地獄のような時間だった。原告は必ず「いけないと思いまーす」で締め、被告は横田裁判長に促されるまま「すみませんでした。もうしません」とこうべを垂れる。その後、棚の掃除の刑などの刑罰が下されるのだった。

 

決まってよく発表するのは女子であった。彼女らはナチの秘密警察だった。確実に男子達をいたぶって楽しんでいた。極めて悪趣味なシステムに教育とは何かを考えさせられる。僕らはその女子と関わらないように、平穏無事に日々を過ごすように努めた。

 

ある日僕も「○○さんが廊下で肩を組んで歩いていました」と発表されたことがある。その時は「すみませんでした。もうしません」で済まず、後で職員室に呼ばれて小一時間説教を食らった。ネチネチネチネチ責めてくる様は警察署でのパワハラ取り調べを想起させた。

 

横田は、授業中お腹が痛いと保健室に行くヒロユキが、教室を出るときにニヤついていたという複数の児童の証言でヒロユキを呼び戻し、仮病と断定して泣くまで説教したりもした。状況証拠のみで有罪になるケースは林真須美よりも先に存在していた。

 

シンタロウは喧嘩相手に中指を立てた罪で立件された。「その指のサインはどういう意味だ」と横田に詰められたシンタロウは「…………天国に行ってくださいという意味です」と涙でぐしゃぐしゃになった顔で述べた。彼が精一杯取り繕った言葉は、真の意味とは全く異なるということを後になって知った。

 

そんなある日、確か自習の時間に一部の男子が、校庭に乱入してきた「ヤクルト強いね」を連呼する頭のおかしいヤクルトおじさんに対して揶揄する言葉をベランダから発した容疑で、クラス全員の居残りが命じられた。

当時、その手の変なおじさんが校庭に来ることがままあったのだ。その日の帰りの会は副担任が担当したのだが、早急に帰ってしまったため、僕ら全員は教室に待機し横田を待ったが、横田は一向に姿を現さなかった。クラスに不穏な空気が立ち込める。

 

「先生呼びに行った方がいいっちゃない?」

「いや、ここで残っていることそのものが刑罰やけんこのまま耐えるべきやろ」

「忘れとる線もあるやない」

 

結局1時間程経っても来なかったので、僕らは有志で職員室までの遠征組を結成し、先生を呼び出しに行ったのだった。

 

クラスに戻ってきた先生は開口一番「なんで帰ってないんだ!!!!」と怒鳴りつけた。意味不明なブチギレに困惑しつつも僕らは恐れおののき、ただひたすら癇癪が過ぎるのを待った。が、どうしても納得できなかった僕はありったけの勇気を振り絞り「僕が言います」と席を立った!

 

「先生が残れと言ったので残っていただけです。残れと言ったのは先生じゃないんですか?」

 

声は震えていただろう。大人しい男子の反目に横田は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そして横田は女子に問いかける。「○○はどう思うか?」

女子は秘密警察なのでもちろんこう答えるのだった。

 

「すぐに先生を呼びに行かなかった私たちが悪いです。○○さんの意見は間違っていると思います」

 

複数人の女子が同じ発言をしたことで、僕の渾身の反論は捻り潰され完全にイニシアチブを持って行かれてしまったのだった。サイレントマジョリティーを恐怖で支配する腐った世の中にポイズンしたい気持ちでいっぱいだった。この時の忸怩たる思いは今でも鮮明に覚えている。

 

なお、横田はその後2名の登校拒否児童を出し、ついに保護者が乗り出すこととなった。その時横田は集まる保護者に対してこう言ってのけたということを後で知った。

 

「私の教育方針ですので」

 

彼は彼なりに筋を通したのだった。モンペが叫ばれる昨今では考えられないことである。こうして横田旋風は引き続き吹き荒れるのであった。

 

ただ、中学に上がってすぐのこと、部活で土日も学校に行くようになり、帰り道でパチンコに行く横田の姿を目にした。ふいに横田がとても弱くちっぽけな男に見えた瞬間であった。

 

人というものはあらゆる側面があると思い知ったが、僕の中学は札付きのワルが跋扈する不条理な世界であり、マジキチ教師の支配が可愛く思えるほどの暗黒社会の幕開けであることは、その頃はまだ知る由もなかった。